橋本恭明の制作略歴.思考主体」ページです。
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年号
1973~2005
~32
思考主体
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年号
流れ
1973~1986
0~12
広島県府中市に生まれる。6~7才頃迄はクレヨンでキャラクター、乗り物等を落書きして遊ぶ。
10才頃初めて写生大会に出掛け、描く事の楽しみを覚える。水彩を扱う事が何の抵抗もなく極自然に感じられ、風景を描く事を好み授業以外にも多数制作。制作後、道具(パレット等)を洗わなかった為に何時も汚れた状態だったが、この状態を非常に好んでいた。
「ナイロンの筆が良いよ」と言われ、実際に使ってみてしっくりときた為、17~8才までナイロン製だけを用いて描く

「描く事はタッチの蓄積である」という考えを持ち、観て感じる色を1筆ずつのせていきながら喜び、あっという間に時間が経過する。
ミレーの落ち穂拾い(印刷複製)を観て写真ではない事に気づくが、どうして画面にこんなにも起伏があるのだろうと疑問を抱き、油絵という物の存在を知る。
年月を過ぎてくると回りの友達の中には勉強と机につく者が現れてくるが、12才頃迄は外を走り回り探検をし、虫を取り、「映画、漫画、アニメ、ゲーム、ラジコン」等に刺激や最先端の感覚を求め、おとなしく机についた記憶がない。TVゲーム、RPGの先駆けや、テレビアニメ黄金期等、多感な時期に過ごす

1987~1995
13~21
15,6才頃迄は、写生大会に行って遅くなり、塾に遅れて怒られたエピソードがある程、この間もしばしば絵を描きに出掛ける。
14才頃授業で水彩を用いて先人画家作品の模写をする。しかしながら美術から唯一、一番遠離っていたと思えるのはこの13~15才時代だけである。
16才頃に、芸術で生きていきたいと心から願うようになる。
17~18才の時、東京の美術館の常設展を回り、自分の好きな海外の作家の作品を初めて観て、東京滞在中は毎日の様にそこへ通う。帰郷前日、渋谷のミレー展覧会で本物を観れて感動する。
上京後3年間は納得のいく作品が出来ず、日本美術界の不可解さも相俟って悩み苦しみ、この時期は全ての環境に於いて劣悪。日本美術界の悪循環の生まれる所を目の前で体感し、この時の経験から、後に、改善したいと強く願うようになる。
後に気づいた事だが、日本は世界に類を観ない程の美術経歴優先国で、画家判断が経歴優先の為に、真の意味でも生まれてきた作品が世にでない事で、間違った流れを創り、非常に怪しい世界になっていると気づく。
住んでいた近くに洋書画集店があり、毎日のように訪れては食い入るように観、生活費を削って多数購入する。この時期から数年間は特に、世界の美術作品から世界美術の歴史などを積極的に読みあさる。
1996~1998
22~25
リアリズムに魅了され、一枚の作品を長時間描き続ける。今の自分には重要な意味を持つと考えていた事もあって、ここまで真剣で良いのだろうか?と思える程、芸術に対して懸命に思考し、閉鎖的な日本の絵画世界にいらだちを感じながらも、一タッチ一タッチ黙々と作品を製作する。
求めていたリアルなモノという考えが、一枚の絵の中に時間を閉じ込めるという形で解決しようと試みていた。
三次元と二次元という事に、今までとは違う感じ方、考えを持ちはじめる。
資材置き場を描いた辺りから、平面には平面を描く方が画面が強くなるという事を考え、それを逆手にとって、ナイフでの制作を主流にし、絵の具は多く使いながらも筆のタッチを押さえて消す程に、徹底して平らにする事で平面であるというリアリティを表現しようとする。
その後次第に、絵画の歴史は絵画の為の絵画を模索しているに過ぎないと考え始め、絵画展開の奴隷だけの存在になる事を嫌い、描いている本人の視点(位置、存在)を画面に投影させる事で自らの存在を強調しようと試みる。この事が空を大きく撮る構図になっていく。
1999
26
「そら」のみを描いた時、そこには当り前の様に抵抗のある物質は無く、延々と広がる空間だけであり、これをささえるには「物質的な物」か「精神的なモノ」の2種類だと考える。勿論、無限に広がる空の奥行き空間に、絵の具という物質をのせて表現しているのは最小限の事実として存在しているが、物質的な意識として空を描こうとする事を止めれば、そこには精神的なモノしか残らないと考える。(無論、絵画的な事やテクニックを省いての話だが)
見つめる目のみで「そら」を表現しようとすれば、そこには矛盾と対立している自分しかいない事に気づく。この事が、絵画の矛盾と向き合い、思考、制作へと発展していく。
これ以降、精神的なモノへの考察が強くなっていく。画面の中で絵画的事柄との思考が始まる。
2000
27
「そら」を描いた後、再び地面を描き、以前の暖かみのあるものから、今度は人工的な物で精神性を表現しようとするが、風景画で現代の精神面を表現するには限界があると考える。
この時期、幼少時代のコンピューターとの著しい進歩に驚き、現代に生きているという考えとも相俟って、何の抵抗感も無くPCによる制作も同時進行させ、今まで表現を避けていたテーマを製作する。
この年、画家という世界の窮屈さが嫌になり、現代美術家として製作活動する事になる。
初めて命への讃歌、エールを製作し、自分を縛っていたモノが、アカデミックなモノ、体制、絵画的な事であったと気がつく。以後この事柄との解決改善策を模索する事となる。
この年、芸術、絵画を観る目すら持たない人が、何故か世の中に芸術を公表する類いのジャンルで取り仕切り、あれこれと判断している事に対して、こんな事をしているからこの国は商業的芸術しか浸透せず、閉鎖的なのだと、憤りを感じる。
2001
28
テロ事件の影響もあり、人間という存在、かけがえのない命をより一層深く考えるようになる。
人間の複雑な精神を表現しようとする時、作品自体もそれに応じた、生身のあるモノでなければならないと考え、人間の存在に応じた作品の幅を表現しようとする。具体的に1つには、人間の存在には失敗成功は無いように、作品もその事を踏まえて一枚一枚全て上下の無い作品とし、自分の意思で引いた線と偶然性の宝庫である水彩を用いて、人間の精神を表現しようと試みる。
無心で描くとよく言われるが、その時にも必ずと言ってよい程、絵画的な事柄等が付きまとうものである。これらの作品を通して初めて、この類いを超越するには子供(年少)の絵が一番近いのではないだろうかと考えるようになり、ピカソは晩年、この事を考えていたのではないだろうかと考える。
このシリーズの制作から、描くという事と文化の間に関係がある事を気づき始める。
2002
29
顔シリーズの制作から、人間は精神で線を引いている、描いているという事を実感する。
真の芸術は、完成されたモノではなく、先見の目から生まれた断片的作品であると確信する。
出来るだけ多くの人が、物を観れて描ける様になれば、今の美術体制は良い方向に向かうと考え、描いている人全員に、誰もがみんなモチーフを描ける様になる為に必要な事を、親身になって指導する事を決める。
純粋芸術と経済が、ただ1人の結びつき等という事ではなく、この国に当り前の様に流れる環境にしたいと考えて経済面も学ぼうとするが、なかなか思う様にいかない。

1人の芸術家として、世の中の流れや現代について、いろいろと考え始める様になる。
2003
30
現在と未来を積極的に考える様になる。
日本美術界の現状を書き綴り理解を求めようと試みるが、なかなか理解されず、自らの不甲斐無さを痛切に感じる。
日本の絵画指導の現状を再認識し、過去に自分が経験した出来事と、これまで制作等から思考してきた「観る事、描く事」と「精神面」から、日本一の絵画指導を行う様に切磋琢磨する。
「顔シリーズ」を継続しつつ、この国の絵画的という事柄は主に、西洋から生まれた絵画アカデミズムが渡来した物であるという結論に達し、日本における独自の絵画的という概念を模索する為、「漫画」の表現を用いて構成、日本文化も研究する。その事等から「漫画ドローイング」をスタートさせる事となる。
「漫画ドローイング」においても、コンセプトの精神面は変わらず、漫画という日本十八番文化の性質と民族性からくる精神面を一体化させようと試行錯誤する。
これらの流れの中から、「漫画」という物が持つ表現形式「コマ(コマ割り)」の有る無しでの、物語性の存在や空間の違い等を実感する。
2004
31
日本製絵画の追求から「漫画ドローイング」を継続しつつ「漫画」シリーズをスタートさせる。
「絵画的」と「物語性」は真逆の発展を遂げているものだけに共存させる事への試行錯誤が続き、抽象においてもそれらを一つの画面に閉じ込める事が可能であると知る。
どれだけ制作しようとも「時代性」や「展開,発展」を利用し試みようとも、西洋生まれのアカデミズム絵画操作を行っている現実に、これまで試みてきた事柄と書道筆を使う事で日本製を試みようとする。
この領域は非常に困難を要すると憶測し、当初から多方向に分解させ迫ろうとするが、求めているモノには程遠く、苦悩からくる試行錯誤が続く。絵画性への哲学を「展開,発展」させる事で飲み込もうとしていた自分を違った角度から見つめる目的の一つとして、幼少時代の絵を研究等も行い、
芸術への思い、基盤構築への思いと共に、研究題材でもある「観る事の追求」へ割く時間が増える。
この年、
誰にでも物が描ける様になる為の指導内容を確立し、"万人へ、描ける様になれる為の秘密を隠さず指導"を実践、絵画指導に力を入れる。橋本恭明指導の絵画教室が増える事にも伴って、暴露し他が言うに躊躇する事と"とどの詰まり"を指導するにしたがって、自ら絵画指導日本一宣言をする。
その他、様々な事柄に発言し変化願う事をコンセプトの一つにもしていたコラム「賛否可」を、そう変化してきた事と推測し、「賛否可」一時休止する。
2005
32
休止中コラム「賛否可」を活動目的から一時再開させる。
「漫画ドローイング」と「漫画」シリーズを 引き続き制作し、新たな素材を用い「観る事の追求」を行う。
絵画として同じ素材と平面理念を扱う条件内では西洋アカデミズム絵画操作の全脱却は不可能であると確信、その上に立ち日本製絵画的を試みる為にも漫画ドローイングにて、書道毛筆を用い水墨画等や特に浮世絵作家直筆下図を参考に西洋絵画的と日本製絵画的との中和を試み、その先を模索する。
日本製絵画的理念が主たる理由の漫画シリーズに於いてこれまで制作に苦悩試行錯誤していたが、初めてオリジナルと考える日本製絵画的を一つの形にする。この事からこの年、漫画ドローイング(西日絵画的中和への試行錯誤)と漫画シリーズ(オリジナル日本製絵画的追求)の意味を持たせる事となる。

「絵画的と物語性」の関係について苦悩していたが、時間という概念が全てに影響を与えている以上、物語性は消滅する事が無い事実を制作に於いて実体化し、展開させる断片に於いてのみ具体的物語性排除の必要性、事実がある事を検証する。そして年月とともにその事すら物語性、時間的概念に飲み込まれる理念は前説が確定事項であるが故に避けて通る事が出来ないという事も発見する。
絵画指導に於いて、その道の人が身につける絵画概念と技術や思考をそれ以外の万人へ分け隔てなく指導を行ってきた経緯から公式ページへ公開掲載をする。これらの事で、活動してきた美術系コラムと万人の為の芸術が一つの形として表現出来た事により、11月1日、18日、これまで活動を行ってきた「橋本恭明スタジオ」のサイト概要とコラム概要の正式掲示を行う。この事により、印象派に次ぐ芸術の解放運動、初の芸術家による芸術(人間)の為の芸術活動を正式表明する事となる。
続編公式サイトを構想する。
2006~
33~
「橋本恭明スタジオΘ」へ
リンク。



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